2016年10月23日日曜日

アニメインスタレーション・青島千穂展を見る


  7/22元麻布にあるkaikaikikiギャラリーでの青島千穂展のレセプションに友人と出かけた
閑静な住宅街の一角、大きいが低層のビルの地下。表に何も看板のようなものが出ていないせいか若者が表に立って案内をしていた。スーツをピシッと着こなし、にこやかなソフトな今どきの若者が3 人。思いのほか広く天井も高く、コンクリート打ちっぱなし、素晴らしく気持ちのいい空間だ。
オーナーは今をときめくアート界の寵児、村上隆氏、画家でプロデューサー、そしてコレクター、画廊の経営者である。
  展覧会は3つのパートに分かれていてプロジェクターで壁に写すというビデオインスタレーションである。
青島千穂さんは村上さんがミスター、タカノ綾に次いでプロデュースした3人目のアーティストという。
「高天原」は大型のプロジェクターで壁に写し出される作品。2015年にシアトル美術館で発表したもの。アニメーションパートナーは、ブルース・ファーガソンと彼の工房ダークルームスタジオ。24メートルの長さの画面で、火山の爆発、津波などエンドレスで映像が壁に写し出される美しい色彩とドラマ性があきさせない。
Little Miss Gravestone’s Absent Musings(お墓ちゃんがぼんやり思うこと)は、墓を舞台としているのだろうか。死者が三味線を抱え歌を口ずさむ風景。この世とあの世の境界のない世界が歌詞の内容という。背には墓石を背負い3部作(triptych)、浮世絵の3枚続きからのインスピレーションか。私の外国の友人はこのビデオに大変関心を持っていた。
「カーネギーインターナショナルでの出品作「マグマ魂爆発。津波は恐いよ。」は津波と火山爆発をテーマにした超大作で、その作品を発表した直後、インドネシアの津波が発生していた。その後、心の暗黒部分にとらえられてしまい、途中、迷路に入ってしまい、アイディアを練れなくなってしまったとある。
2011年東日本大震災が起き、青島がテーマにしていた天変地異が実際に日本で起きてしまう。自然の大きな胎動をスピリチュアルな印象で感じていたことが現実に身近に起きてしまったことが、彼女にショックを与え、こじれていた心のカギが再び開けられ、作品制作のきっかけを再び得ることになった。それが2015年にシアトル美術館で発表したアニメーション作品「高天原」である。」 村上談

 
 

 

 

版画家 為金義勝氏がデモンストレーションを快く引き受けてくれた。アメリカでのデモンストレーションについての報告書をここに紹介する。


渡米期間:2016923日~101日  爲金義勝
 
  923() ANA便にて成田からニューヨークJFK空港へ。正午前に到着。ハート フォード市日本人会会長の本郷夫妻の出迎えでコネティカット州ウェトハートフォードへ移動。所要約2時間半。市内のホテル、Hampton Inn & Suitesに投宿。 

  924() 午前11時にAnnシーバース氏の車で、セントジョセフ大学美術館に移動する。昼食後、午後1時よりデモンストレーション開始。持参した葛飾北斎版木「神奈川沖の浪裏」墨版を刷るところから始まり、爲金作品「精霊」6の刷り工程を見せる。大学構内であったが、一般来場者を対象としたデモンストレーション。この企画の推進者の秀友画廊・浅野恵巳氏、また企画協力者のアリソン・トールマン氏も来場。来場者数約4050名で、質問の内容からすると美術関係者が多数を占めていたように思われる。北斎版木     を来場者にバレンで刷ってもらうという体験が喜ばれた。午後3時過ぎ終了。
 
927() ホテルをチェックアウト後、車でルーミス・チャフィースクール(LoomisChaffee Schoolコネティカット州)へ移動。ここはプライベートスクール(私立高校)だが、大学並みの施設を持つ名門で、美術教諭Mark Zunino(版画作家)からの要望で、前述と同内容のデモンストレーションを実施。対象は美術選択をした学生約25名。1240分~14時まで。
 
 929() シーバース氏の車でマサチューセッツ州ノーザンプトンのスミス大学(Smith College)へ。美術学部主任ドワイト・ポーグ氏と翌日の打ち合わせ、デモンストレーションのためのセッティング。ホテル、Autumn Inn投宿後、隣町のビール工場食堂にてポーグ氏、リズ・チャルフィン氏、アニー・ビセット氏(いずれも版画作家)、シーバース氏と打ち合わせを兼ねた会食。
 
 930() 朝9時半からデモンストレーション開始。対象は美術学部の教授陣と学生、および一般来場者あわせて約25名。ハートフォードから本郷夫妻と日本人会の方々数名も来場。ここでは、刷りのデモンストレーション終了後、学生対象のワークショップを実施。日本から持参した版木・越前和紙を使い木版画の制作指導も実施しました。前述のアニー・ビセット教授から「かつて見たこともないほど素晴らしいデモンストレーションであった」との賛辞があった。正午ごろ終了。

2016年10月18日火曜日

アメリカ、SaintJoseph大学美術館で企画された日本現代版画展「HANGA NOW」に望んで


NYからピーターパンのバスで3時間余り、マサチューセッツ州コネチカットのハートフォードにSaint Joseph大学がある。
  9/22から3ヶ月HANGA  NOW というタイトルで、この美術館のキューレーターであるAnn Sieversによって日本の現代版画展が企画された。NYの小さな倉庫にある作品を9/12に大学がピックアップにきて、17点作品をお貸しすることとなった。そのための立会いと引渡しのため1週間NYに滞在して、一度東京に帰り再度渡米し大学のレセプションに参加するため旅程を組んだ。
レセプションンは22日に行われ、その後ディナーの招待があった。美術部も小さいスケールのものだったが、日本の現代版画は大きい作品は少なく、余り大きくないのがいいと思った。しかし緻密でコンポジションが美しく日本人にしか描けない世界である。
  Mr.トールマンの本や世界のアートフェアでよく外国のディーラーによって紹介されている作家の名前は知っていたので・・・
  ディナーはその美術館の2階で簡単な食事であったが、テーブルにはそれぞれ7人の名前があった。私の隣にはこの学校の副学長と学長が座り、2人とも女性であった。
  ハートフォードのジャパンソサエティのプレジデントである本郷夫妻が左となりにおられ、私のつたない英語の会話を助けてくださった。大学のキャンパスは広いのに何も目印がないので、大きな彫刻があると目印になってよいと思いそのことを話した。こんなに立派なキャンパスなのに、本当に残念だと話すと学長も同じ思いを持っておられ、美術館のディレクターに話すようにと言われた。日本の狭い大学ではなく、こんなに広い大学にこそモニュメンタルな彫刻はあるべきと改めて思った。
  展覧会は3ヶ月、12/18迄続き、版画家の為金氏がワークショップを3回することをこころよく引き受けてくださった。
日本では行き場を失ったような版画家たちの作品が今この大学で誇らしく堂々と人々の賞賛に支えられ展示されているのをみて、多くの来館者があるといいと思い紹介することにした。
インターネットで展覧会の紹介がされています。
 

 

2016年7月30日土曜日

二瓶作品「同潤会建築に思いをはせる」について


 今、当画廊に二瓶博厚氏の描いた作品「同潤会建築に思いをはせる」が掛かっている。実に不思議な面白い作品である。
 画面の中にいろいろな情景が点在し混在しているのだ。緑の中に埋もれた代官山アパート、並木の大通りに面した青山アパート(表参道にあった)、アールデコ風のらせん階段、角隠しをした花嫁、屋上で遊ぶ少年たち、お祭り、盆踊りの風景など。
 建築家として長年多くの建築の設計を手がけてきた二瓶氏の、建築家としての思いと視点がこの作品に結晶しているように思われる。建築家として普通にエスキースとしてペンか鉛筆により完成させる手法もあり得たであろうが、彼は日本画の顔彩を用いて、一枚の絵にこんなに盛り込んだところに、彼の思いの巡るさまが分かり感動を呼ぶ。
 彼は昨年5月に、竹中工務店東京本店の一階「ギャラリーエークワッド」で開催されていた「同潤会の16の試み」展を見て感銘を受けたことが、この作品のきっかけになったこと、制作に際し、同展示会パンフレット、兼平雄樹氏撮影の写真を参考にされたことを、二瓶さんご自身がお書きになっている。
 その一文は、広島のマンション管理会社合人会の月刊紙「ウエンディ」に掲載されていると教えていただいて、同社から送っていただいた。
 当画廊で開催した二瓶博厚個展を前に、ご本人の二瓶氏が急死されたため、二瓶氏から直接お話しを聞くことができなくなった今、ご自身が作品について書かれている記事は大変貴重に思われる。

二瓶さんの個展

二瓶さんの個展が、追悼展となり6/6一応は終わった。初日から毎日多くの人が訪れ、小さな画廊スペースの外にまで人があふれた。このようなことは予想もしなかったことだった。
一週間というのは短すぎて来られない方もあり、あまりにも心残りがあって6階の私のオフィス兼画廊に10点を移して7月中は展示しようということになった。私は海外に所用があり、6/23から10日間留守にしたが、その間は画廊スタッフに、週に3日来て表に展覧会の看板を出してもらった。二瓶さんの友人たちが仙台からO氏、青森県八戸市からK氏、そして個展会期中は海外出張中でいらしたS氏などお越しくださったという。
  二瓶さんが亡くなられて2ヶ月が経過したが、いまだにずっしりとした何かが私をおおっている。準備中のころ絵を描くためのスタジオに伺うのに近くのホテルのロビーでお茶をごちそうになり少しお話しをした。カンカン帽をかぶっておられた二瓶さんの姿が今も印象に残っている。
  今まで数え切れないほど多くの展覧会を開催させていただいたが、今回ほど大勢の方の有形・無形のご助力をいただいた展覧会はなかったように思う。ご遺族をはじめとして、建築家仲間のご友人の皆さまが本当に親身にお世話くださって、私どもの行き届かないところを助けて下さった。心から感謝の意を表したい。それもこれも、亡くなられた二瓶さんが人徳ある方で、温かな血の通ったネットワークをその人生で築いていたということなのであろう。人の死は、深い喪失に違いないが、喪失を分かちあうことが絆を深めたり、残された人の心にカタルシスをもたらしたりするのだ、とあらためて気づかされた。建築家のさまざまな個性に出会って多くを学んだのも、この展覧会のお蔭だ。特別にお世話になったK氏などとても温かな人で、励ましと勇気を与えて下さった。残念ながら留守にしていてお会いできなかったが、私にメモを残してくださりとてもうれしかった。二瓶さんに出会い、長く心に残りそうな展覧会ができて良かった!と思っている。


2016年7月11日月曜日

 抹茶ブーム


 今回滞在したアパートは、古いBrownston5階建ての4階の部屋であった。もちろんエレベータ無し。昨年までお世話になっていたアメリカ人女性のアパートはRiverside にあった。窓から見える風景は公園とその向こうにハドソン川の流れを見下ろす角部屋で環境の良いところにあった。一日30ドルで3年間、お世話になった。完全にプライバシーは守られてうれしかった。私が滞在する日数だけ支払えばよかった。彼女がコロンビア大学の事務職の仕事をリタイアしてから、1年契約の下宿人を入れたので、私は常駐する宿を失った。
  今回滞在したアパートの隣が、京都の人がオーナーらしく京都からきた日本人スタッフが駐在し日本茶のテイクアウトや飲み物の販売をしていて一保堂とあった。1717年から続いている老舗と看板に書かれていたが行く機会がなかった。でも若い女性たちが、外国人も含め抹茶teaを手にうれしそうに店から出てくるのに出会った。Macha-goと書かれた看板もいつも気になりながら、今回もパスした。” MACHA”というのも世界用語になったらしい。日本の人たちは真面目で本当の抹茶を使っているから美味しいにちがいない。

Sさんの墓参に

 二瓶博厚個展が終って一段落したころ、NYに行った。
10日間の滞在期間の第一の目的は、永年親しくしていたスイスのコレクター、S氏のお墓参りであった。
 カナダで精神科の医師をしている娘さんに連絡をとり、墓地の場所を教えてもらって、電車とバスを乗り継いで出かけた。クイーンズとブルツクリン地区の間にある広大な公園の一角にそのユダヤ人たちの墓地はあった。
  ウイークデーの午後のせいか、墓地は人影もなくシーンと静まり、高い木々の緑に染まった梢が、さわやかな風に揺れていた。
真新しい墓石はかなり大きく私の背丈ほどもあり、一昨年NYで亡くなった妹と、1941年に亡くなったという父親の墓と並んでいる。その白いみかげ石に刻まれた“Loved by his Family and Friends”という言葉に、やさしかった在りし日が偲ばれてチョッピリ涙が出た。
彼の亡くなった日付が墓石に刻まれている。見るとそれは2015630日、なんと私はちょうど1年後、1周忌に彼の墓前を訪れているのだ。それは全く偶然だったが、なにかに不思議な巡り会わせを感じたのであった。
聖書の中で、モーゼは120歳まで生きたとある。そのときまだモーゼは目もかすまず、気力も衰えていなかった―という言葉に私はとても感動を覚えている。S氏もモーゼを越えて生きなくて良かった.......そして私はといえば、最近目がかすみ始め、気力は十分あるのに体力が低下している現象を日々経験するようになっている….
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2016年6月8日水曜日

嗚呼、二瓶さん・・なぜ?・・・


 二瓶博厚さんの個展を計画していた準備中であった。
突然の彼の死、1月に手術をして回復に向かっていたというのに街中での転倒であったという。
 二瓶さんを私どもの画廊におつれ下さったのは、東北大学名誉教授であられる伊藤邦明さんだった。留守電に何度もメツセージがあったのを随分たつてから気が付き電話したところ、友人が社会的な仕事を追えて以前から念願していた絵を描くことに専念し始めたので絵を見て欲しいとのこと、どうぞ、と言うことで日を改めて絵をみせていただいた。
 先ず、そのテーマが難民を描いた作品があり驚いた。
最近世界的な問題になっている、アフガニスタン、イラクなどの国の人々が政治的紛争のために、自国を逃れて国境を越えて他国に逃れ庇護を求める人々、、平和な日本では考えられないことが今世界各地で起きている。
 私の画廊で過去何回も取り上げた女流画家のケーテ、コルビッツ。彼女は1871年のドイツ帝国成立から第二次世界大戦までの激動の時期に生きたドイツの生んだ最も秀でた女流画家であった。主に素描と版画で制作し時代背景を表現的手法により、心情的共感を持って生涯描きつずけた画家であった。
 二瓶さんは今年も「棄民、海を渡る」3部作で上野の森美術館大賞展の賞候補になつたという。これは昨年描かれた作品で何れも100号の大作である。正に表現主義技法だと思う。ケーテ・コルビッツに繋がる何かを感じ、これもご縁かと思ったのが、二瓶さんの個展を手がけるきっかけだった。
 二瓶博厚個展は、悲しいことに追悼展になったが予定通り、531日~66日の会期で開催中である。同窓生や古い友人の思いがけない再会の場になったりして、毎日盛況である。ふっとなつかしさを覚える味わい深い二瓶博厚の絵を多くの方に見ていただきたいと願っている。あんなに楽しみにされていた二瓶さん、天国からご覧になっていますよね。

2016年5月13日金曜日

ミスターグリアー


 ニューヨークにいくといつも会いたくなる人、グリアーさん。
1924年生まれだから今年92歳になるソーホに住むデイラーだ。夫人はアーテイスト。何歳か知らないがお互いにいい感じでくらしている。電話して約束の日に訪ねると紅茶と彼が作ったケーキを出してくれる。日本のバブル期、彼に橋渡しをしていた日本人のデイラーと組んで沢山の作品を日本に売りこんだという。上手くビジネスチャンスを捉えて、、、その時代を私も知っているけれど主に美術館に購入してもらうことが多く、扱った版画作品は古典から現代までとなると多岐にわたり、リサーチに時間がかかり文献を揃えたり、バブル期は面白いけれど、私にとりハードな経験だった。しかし今も昔の知り合いと時々会うことができるのは楽しい。

2016年4月2日土曜日

Touching Time An Exhibition of the Sculpture of Kan Yasuda;

安田 侃の彫刻、New York Christie`s 前にドカーンと

 彫刻家、安田侃は1945年北海道美唄市生れ。現在、大理石産地として名高い北イタリアのピエトロサンタに、1973年以降アトリエを持ち制作に励んでいると聞く。
 ニューヨークのクリスティーズに行ったら、いきなり遠くからでもひと目で安田侃と分かる彫刻が玄関前にドカーンと置かれていて、とても人目を引く。ちょうどクリスティーズは
安田侃彫刻展を開催していて、中に入ると大きな部屋にゆったり作品が展示され、気持ちよい空間をつくっている。自然の中にその彫刻を思い浮かべると、草原の中に産み落とされた巨大な野鳥の卵のようだ
 数々の賞を国内外で受賞され輝かしいキャリアの持ち主であるご本人にお会いしたことはないので、「彫刻家はときどきいらっしゃるの?」と聞くと、「毎日一度顔を出すわよ」と
言われ、期待したが、残念ながらお会いする機会はなかった。
 クリスティーズは、中国オークションの開催中でもあったが、プライベートセールということだった。イサムノグチに次いで、安田侃も今や世界的アーテストと認め、世界のコレクターに売ろうとしている世界最大のオークシオンハウスが目をつけ始めた。 




 

2016年3月7日月曜日

建築とアートの出会い (明治生まれの父、早大の理工科で建築を学んだそうな)


私の子供の頃、父は家で製図版の上で三角定規を使いながら線を引いたりしていたのを覚えている。
  また、短い期間であったが、東大の建築科の内田先生のポケットマネーで雇われた秘書をしていたことがあり、当時の建築科の学生たちが、私の目にとてもかっこよく見えた。その後、何年か経ち新聞の記事で剣持勇氏の息子、玲さんは確かスイスのどこかで自動車事故でなくなったときいた。大学院の学生であられたがやさしく本当にかっこいい人だった。当時、すでに結婚されていたが若くして亡くなられたがきっと生きていたら一流の建築家になっていたに違いない。
画廊をはじめてから建築とアートの接点を求め始めたのも、建築に対する興味があったからだと思っている。

  美術作家とクライアントの間に立ち、快適な建築空間をプロデュースする「アートコンサルタント」、それが私の仕事だ。
企業や法律事務所、病院、学校などのとかく実用本位で退屈になりがちな場所に美術品を置くことは、そこで過ごす人々にすてきな空間と時間を与え、思いがけない効果をもたらす。病院の廊下を飾る一枚の絵に言葉ではない優しさと慰めを感じたことはないだろうか。また、企業の応接室を飾る絵が、その会社の品格を示したりする。
アメリカでは「コーポレートアドバイザー」という肩書きの専門家が1970年代から本格的に活躍しはじめた。美術の専門家ではない企業が美術品を取り入れる際に、彼らはアートコンサルタントとしてアドバイスをする。

  日本では「アートコンサルタント」の存在はまだまだ認知されていないが、美術に関する中立的な専門家が絶対に必要だ。
今後、私は、今まで培った美術品の選別をはじめ、評価や調達、基本設計や作業スケジュールなどの長年の画廊経営のキャリアを生かし、それらを広く社会に役立てていきたいと思っている。


2016年3月3日木曜日

芥川紗織(1924~1966)没後、50年をむかえて(戦後の美術界に彗星のように現れて去った天女画家)

女流画家、芥川紗織が活躍したのは、1950年代の半ば、太平洋戦争敗戦から10数年を経たころからである。人びとが戦争の荒廃や重い束縛から自らを解き放つ活動が顕著になり政府の経済白書も「もはや戦後ではない」とした時代で、自由を求め輝こうとしていた時代であった。
その頃、紗織は瑞々しい青春を謳歌しつつ、未来を夢見て上野の東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の声楽科に入学した。同窓には後に作曲家として名をなす芥川也寸志がいた。やがて2人は恋に落ち1948年に結婚した。その紗織が絵を描きはじめる。
音楽から絵画の世界に惹かれて
 2人の娘に恵まれた結婚生活だったが、紗織は何に衝き動かされたのだろうか。何か満たされないものがあって彼女を創作活動に走らせたのだろうか。
 やがて彼女は、個展、グループ展などで精力的に作品を発表しつづける。それらは当時の前衛的作家の中にあっても異質で衝撃的なものであった。その作品は神話や民話の形を取りながら、奔放でいっそう自由自在であり、表現されているものは「女」であり、その女たちは烈しく怒り、叫び、身もだえするという烈しいものであった。まるで彼女の中に吹き荒れていた不安や葛藤を物語るようにまさしくそれは彼女の自画像であった。
離婚、そして渡米
 当時の新聞や雑誌の記事に添えられた写真を見ると、紗織はふっくらと豊かな頬をもった愛らしい女性であり、常にマスコミの話題になっていたことを窺い知ることができる。
 1958年、紗織は芥川也寸志との11年におよぶ結婚生活を解消した。その後、建築家、間所幸雄と新しい結婚をしてやがて2年後には新天地を求めて渡米する。
 ロスアンジェルスや、ニューヨークのアート、スチューデントリーグに学び帰国してからの画風は、自らの変革を目指すが如く、それまでに見られない硬質な抽象画を描き始め劇的な変化をとげる。それらの作品は色彩も限定され、過去にあったような』先鋭的な形や色が影をひそめ、落ち着いた中に静かな安定を感じさせる作品に変わっていった。
 紗織は、妻、母の役割から解放され、ひとりの女性として自らの意思で外界に眼を向ける。広大無限の宇宙に抱かれて自らを成長させる、そんな喜びを感じ始めていたに違いない。
早すぎる
 それから4年後、彼女に早すぎる死が訪れた。それは19661月、妊娠中毒症のために彼女は永遠に帰らぬ人となった。享年42歳であり、生き続けさえできたら、さらに輝かしい活躍が期待されたろうに。あまりにも早すぎ、惜しみて余りある死であった。その死からら50年が経ち、その間日本は大きな変化をとげている。
 没後50年に当たり、歴史のはざ間に埋もれるにはあまりに惜しい彼女の画業に今一度光を与えたられたら、と願っている。当画廊は、芥川紗織展に合わせて記念画集の編纂を企画している。
 紗織の作品は世田谷区美術館、東京都現代美術館、国立近代美術館、名古屋市美術館、豊橋市美術館、高松市美術館、栃木県立美術館などに収蔵されている。
  2009年春には横須賀市立美術館で芥川紗織展が企画され、愛知県の三岸節子記念美術館に巡回し、彼女の画業は広く関心を集めた。また、2012年、ニューヨークで開催された「TOKYO 1955~1970  A New Avant-Garde」展には、高松市美術館所蔵作品が出展されている。

 美術館以外の作品の多くは、ご遺族の委託を受けて今私の手許にあり、新たな展覧の機会を待っている。
 秀友画廊では今まであまり紹介されたことのない、ニューヨーク時代の作品「油彩」
を主に展示しているのでご覧になっていただきたい。芥川紗織を紹介すべく小冊子を
編集中であるが完成したら展覧会をしたいと考えているが完成は5月ころになりそうである。
連絡は shuyugallery@gmail.com または 03 3573-5335に。