女流画家、芥川紗織が活躍したのは、1950年代の半ば、太平洋戦争敗戦から10数年を経たころからである。人びとが戦争の荒廃や重い束縛から自らを解き放つ活動が顕著になり政府の経済白書も「もはや戦後ではない」とした時代で、自由を求め輝こうとしていた時代であった。
その頃、紗織は瑞々しい青春を謳歌しつつ、未来を夢見て上野の東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の声楽科に入学した。同窓には後に作曲家として名をなす芥川也寸志がいた。やがて2人は恋に落ち1948年に結婚した。その紗織が絵を描きはじめる。
音楽から絵画の世界に惹かれて2人の娘に恵まれた結婚生活だったが、紗織は何に衝き動かされたのだろうか。何か満たされないものがあって彼女を創作活動に走らせたのだろうか。
やがて彼女は、個展、グループ展などで精力的に作品を発表しつづける。それらは当時の前衛的作家の中にあっても異質で衝撃的なものであった。その作品は神話や民話の形を取りながら、奔放でいっそう自由自在であり、表現されているものは「女」であり、その女たちは烈しく怒り、叫び、身もだえするという烈しいものであった。まるで彼女の中に吹き荒れていた不安や葛藤を物語るようにまさしくそれは彼女の自画像であった。
離婚、そして渡米
当時の新聞や雑誌の記事に添えられた写真を見ると、紗織はふっくらと豊かな頬をもった愛らしい女性であり、常にマスコミの話題になっていたことを窺い知ることができる。
1958年、紗織は芥川也寸志との11年におよぶ結婚生活を解消した。その後、建築家、間所幸雄と新しい結婚をしてやがて2年後には新天地を求めて渡米する。
ロスアンジェルスや、ニューヨークのアート、スチューデントリーグに学び帰国してからの画風は、自らの変革を目指すが如く、それまでに見られない硬質な抽象画を描き始め劇的な変化をとげる。それらの作品は色彩も限定され、過去にあったような』先鋭的な形や色が影をひそめ、落ち着いた中に静かな安定を感じさせる作品に変わっていった。
紗織は、妻、母の役割から解放され、ひとりの女性として自らの意思で外界に眼を向ける。広大無限の宇宙に抱かれて自らを成長させる、そんな喜びを感じ始めていたに違いない。
早すぎる死
それから4年後、彼女に早すぎる死が訪れた。それは1966年1月、妊娠中毒症のために彼女は永遠に帰らぬ人となった。享年42歳であり、生き続けさえできたら、さらに輝かしい活躍が期待されたろうに。あまりにも早すぎ、惜しみて余りある死であった。その死からら50年が経ち、その間日本は大きな変化をとげている。
没後50年に当たり、歴史のはざ間に埋もれるにはあまりに惜しい彼女の画業に今一度光を与えたられたら、と願っている。当画廊は、芥川紗織展に合わせて記念画集の編纂を企画している。
紗織の作品は世田谷区美術館、東京都現代美術館、国立近代美術館、名古屋市美術館、豊橋市美術館、高松市美術館、栃木県立美術館などに収蔵されている。
2009年春には横須賀市立美術館で芥川紗織展が企画され、愛知県の三岸節子記念美術館に巡回し、彼女の画業は広く関心を集めた。また、2012年、ニューヨークで開催された「TOKYO 1955~1970 A New Avant-Garde」展には、高松市美術館所蔵作品が出展されている。
美術館以外の作品の多くは、ご遺族の委託を受けて今私の手許にあり、新たな展覧の機会を待っている。
秀友画廊では今まであまり紹介されたことのない、ニューヨーク時代の作品「油彩」を主に展示しているのでご覧になっていただきたい。芥川紗織を紹介すべく小冊子を
編集中であるが完成したら展覧会をしたいと考えているが完成は5月ころになりそうである。
連絡は shuyugallery@gmail.com または 03 3573-5335に。
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