2015年10月4日日曜日

ガラス絵NOW (現代作家によるガラス絵 をふくむ100点展)


100という文字には何か充実した幸福感を覚える。

そんな思いから、100点のガラス絵展の企画が浮かび上がった。

考えてみると、美術の世界で仕事を始めてから今年は40年になる。導いてくださった方、支えてくださった多くの方々を思うと感謝の気持ちで一杯になる。100という満たされた数字に深い感謝を託したい。
  ガラス絵は、江戸時代徳川将軍へ献上するために、中国から到来したものであった。その鮮やかな色彩と珍しさとが相まって、多くの人々を魅了してきた。近代においては、大正の末頃、小出楢重をはじめ優れた画家たちによって芸術性豊かな珠玉の作品が描かれ残されているが、それは決して数多くではない。しかしながらガラス絵の珠玉のような色彩の美しさに惹かれる現代作家によって、新しい世界が開かれてきた。
  今までご縁のあった作家たちに出品をお願いした。また、この方がガラス絵を描いたら、きっと面白い!と思って、初めてガラス絵に挑戦していただいた作家もある。ガラス絵の新しい魅力と明日への展望が開かれることを期待する。
  小さな島国日本には、小さくて密度の高いガラス絵のような作品はとても似合うように思われる。
                  ◆展覧会期日と会場◆

          20151013日~19日  彩波画廊1F

          20151013日~24日  秀友画廊6F 

          11001900(土、日曜日は12001800

 ~秀友画廊の「ガラス絵100点展」に寄せて~
 秀友画廊が、ガラス絵を中心にした展覧会を開かれるとのこと、いくつかの思い出があるので、それらを記してみよう。
 まず、版画家小泉葵己男の珍しい水彩画、ついでジャポニズムの画家たち、リヴェールやオルリック、ホイッスラー、ヴァロットンなど西洋のユニークな版画を先駆けて紹介しており、女流画家ケーテ・コルヴィッツの版画や芥川紗織のファイバーワークもここで見た。禅の久松真一の短冊は、久松師とは岐阜市出身という同郷のよしみがあると聞いたが、あまたの意欲的な展覧会が今も記憶に新しい。
  今回の「ガラス絵100点展」にも期待しており、小出楢重、北川民治のようないつも新鮮なガラス絵を見てみたいというのが、私のささやかな希望である。
                    金原宏行(美術評論家/豊橋市美術博物館館長)

                   秀友画廊 
104-0061 東京都中央区銀座7-8-1 丸吉ビル6F 
                  TEL/FAX 03-3573-5335 Email:shuyugallery@gmail.com  

2015年6月23日火曜日

小海町高原美術館 Koumi-machi Kougenn Museum of Art;  展覧会「4月11日-6月7日」


信州、黒姫に住んでおられる、平山さんのお誘いいただかなければきつと
くることができなかったに違いない八ヶ岳のふもとにある小海町高原美術館。 
411日に3人展・そこにあるもの“モノクロームの魅力“のアーテイスト、トークがあるというので出かけた。秋山 泉さんの鉛筆ドローイング、小松嘉門さんの木版、中村真美子さんの繊細なドライポイント、、、それぞれ異なる技法で制作された作品群。しばしアーテイストたちの語る熱い思いに耳を傾け新鮮な思いで豊かなひと時を楽しんだ。
 1997年に安藤忠雄の設計により建設されたという美術館は「人と自然の融合、
調和をテーマ」とあり高原の傾斜地はかたちを変えることなく生かされて周囲の豊かな自然と館内は閉ざされることなく呼応している、、確かに突然異次元の現代建築がそこに現れたというのではなく自然の息ずかいがそのままに館内と一体となり気持ちのいい空間であった。 
小海町がどれほどの人たちが住んでおられるか知らないが町長さんや館長さんの挨拶もあり小海町美術館にふさわしい企画が組まれて年間スケジュールを見ると620日からスイス在住の画家、横井照子、画業70年があると知りぜひまた訪れてみたいと思っている。
 

2015年5月23日土曜日

ベアテ、若き日のエポツク (日本に「男女平等の夜明けをもたらした女性の半生)


1945年のクリスマス。イヴ、アメリカから5年ぶりに焦土と化した東京に戻ったベアテ。音信不通となっていた日本の父と母に再会したい思いからGHQの要員の1人としての帰国だった。、、、で始まる公演は”朗読力向上 “を目的とする企画で、演出は児玉 朗氏であった。
 当時、22歳であったベアテが「男女平等」「女性の権利」などを憲法草案の条項に書き込んでゆく姿を出演者の多彩な語りと安藤 由布樹氏の即興演奏で語り継いでゆくという朗読とピアノ演奏でのコラボレーシオン。
 私はここ何年か、体調をくずしてから声がお腹の中から出なくなり、エネルギーの枯渇を感じるようになり声の回復を願いつつ、親しい友人が参加しているという朗時会に招かれた。その友人はとても艶のある透明感のあるクリアーな声で、立体的な奥の深い言葉として語られ日常と異なる世界にとても私は感動した。

ベアテさんとの出会い
 最初、ベアテさんを見たのはコロンビア大学でのドナルドキーンセンターでの講演会であった。壇上で語られたベアテさんの姿を今も鮮明に記憶している。黒い日本の羽織を洋服の上に着ておられ、それがグレイの髪によく映えて、にこやかな微笑みとともに美しかった。
 それからベアテさんに手紙を書きニューヨークの自宅に何回かお伺いする機会があった。亡くなられた年の11月にベアテの親友であった杉本浩二さんが彼女の家に滞在しておられて私も招かれて杉本さんの手になるお寿司をいつしょにご馳走になった。
 まもなくベアテさんの訃報を聞くことになり、少し前に亡くなられた夫のもとに駆け足でいつてしまわれた。
 今年戦後70年ということでさまざまな企画がなされている、美術館での展覧会も戦争に関した企画も多くそれらを心に刻むという意味でも、次世代に継承してゆく意味でも心に留めたいと思うこのごろである。


2015年5月22日金曜日

近かごろ思うこと


美術品には無名有名にかかわらずそれなりの魂があると思う。
阿部合成の作品をメキシコに探す旅に出かけたことがあり、ついに8回もの旅を重ねて12点の作品を入手した。
 そのなかの1点は黒い牛を描いたものであり今にも駆け出しそうな勇猛さであったが、真ん中に穴が開き痛々しいものであった。なぜと持ち主に聞くとこどもたちがボールを投げて的中させて遊んだ、、、のだそうだ。
 そのままではと交渉して日本に持ち帰り修復し今は合成の故郷の美術館に展示されている。
美術品の運命
 30余年の画廊経営を経て最近はアートコンサルタントとしての仕事に移行しつつあり新しい分野でのスタートを試みている。
コレクシオンは個人的なもので親子や兄弟がそれを引き継ぐことはまれである。
欧米などの財閥たちがお金にまかせて購入したものを美術館として公的に国や財団が管理するという以外は、、、特に日本のバブルといわれた時代に多くの個人美術館が各地にできたが最近は閉館されるところがあるようだ。
 時代とともに変化する価値感、私たちが育った時代はもつたいない世代であり、簡単に捨てることができなかつた。次世代のひとびと、今後社会の中心となり責任を担うひとたちはコンピューターが必要不可欠である。
 簡単に誰でも一瞬にして手に入る情報、そのためにいろいろな過程を経なければならなかった時代であったのが努力なしに得られるという時代。ストレスの大きさは計り知れない。
 パソコン上で美術作品の売買ができるなど考えられただろうか。新しいビジネススタイルであるようだ。
 それにしても、美術品の価格の変遷も見ていると楽しくもあり悲しくもあり、驚くばかりである。最近個人の方からの相談で230年前に購入した西洋版画
を査定してほしいといわれ、いくつかの方法で調べて返事を差し上げると、為替の変動で当時と比べて半額くらいになってしまう場合がある。
そんな時大切にしてこられた作品を処分する必要がなければ,そのままお持ちになられて今後も楽しまれますように、と話をすることにしている。
 
 美術品は本来は価値が高くなるに違いないと人々は思うようである。しかし期待に添えないことも多いのだが相手の気持ちを大切に、今後もご相談に乗りたいと考えている。

2015年5月9日土曜日

心ゆさぶられた、ピアノ演奏            ~可児亜理 ピアノコンサートをきいて4月26日~

 久しぶりに、葉山にでかけた。コンサート会場は葉山の海岸近く  旧東伏見宮別邸が現在は女子修道院葉山となり幼稚園が併設されて いる大正時代に建てられたこの別邸だつた。  建てられた当時はさぞ美しい建物であつただろうと思わせる趣が風雨にさらされペンキの塗装がはがれても変わらぬ風格が見受けられる。  ほとんどが女性たちでお互いが声かけあって集まり小さなサロンコンサート であつた。中心になつて人集めしたのは幸子さん。彼女は不思議な人でいつも 音楽家であれ、芸術家であれその人の生き方に感動したらとことん心血注いで応援してしまう。  今回のピアニスト,可児 亜理さんのことも名門や財閥の娘さんでなくこく普通の家庭に生まれた彼女が武蔵野音楽大学・大学院修了後、ドイツで学ぶ機会を得て様々な研鑚を摘んで今日ある、、、こととピアニストとして素晴らしい 演奏家であることから彼女をもつと多くの人に知ってもらいたいとの思いから 介し始めて口伝えで輪がひろがつていくのである。  
 ベートーヴェンのソナタ;作品27-1  
 ベートーヴェンのソナタ 作品27-2 月光  
私は音楽の知識もないし、深く味わうことも知らないのにどうしたことか途中、なぜか涙がこみあげてきて止まらない、、ここは修道院だつたというから聖霊にみちているのかも知れない、、しかし年齢を重ねて涙もろくなつてしまつたのかしら。とにかく力つよく心をノツクされたようだ。

2015年5月2日土曜日

竹田鎮三郎・ メキシコに架けたアートの橋 ( 岡本太郎「明日の神話」を支えた画家 )

 4月24日、川崎市にある岡本太郎美術館でのレセプシオンに参加した。
竹田さんがメキシコから来られるとのことでお会いしたいとおもつた。駅前からバスに乗り降りたところから歩き始めたが素晴らしい杉の木立が天にも届けと高く育ち木漏れ日がきらきらと降り注ぐさまはおとぎの国に来たようにも思えた。川崎市生田緑地、、、というようだ。
 竹田さんはメキシコに渡り画家として多くの足跡を残した岐阜県瀬戸出身の北川民次に影響を受け、東京芸大を卒業しその後1963年にメキシコにわたりしばらくメキシコシテイにいたのち、オアハカ州に移り今日までオアハカを拠点として歩みつずけている。
 竹田さんの作品は文明から背をむけた原始の形があり力強く、大地と太陽のにおいを私は感じる。メキシコ先住民の祭りを訪ね歩き先住民の生活やメキシコ人の原始の魂を求めて農民を描くようになった。
 昨年12月に私の画廊で ”祈りに寄せて ”という展覧会を企画した。竹田さんの大作、「奉納花」を展示した。祭りをテーマにした作品である。
 メキシコにお盆の季節が来ました。女たちはマリーゴールドの花を馬に乗せて市場へ、そして人々は山吹色の花で祭壇を飾ります。ご先祖さまとのひとときを家族と共に過ごすのです。「竹田鎮三郎」
 レセプシオンは感激の連続だつた。メキシコ駐日大使カルロス・フェルナンド・アルマダ・ロペス氏の挨拶も竹田さんに対する感謝と真意に溢れていたし、竹田さんが教鞭をとつておられたオアハカ州立自治ベニート・ファレス大学の総長であるエドワルド・マルチネス・エルメス氏のスピーチも多くの生徒が竹田さんの指導で画家として成長していくさまを語っておられたし、竹田さんに対する感謝にあふれていた。5人の生徒が来日し、作品が展示されている。
 私はメキシコシテイに縁があり8回訪問する機会があつたが残念にもオアハカ州に行くチャンスがなかつた。展覧会は7月5日まで。


2015年2月12日木曜日

わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術~宮城県美術館のレセプシオンに、、、


 美術評論家、針生一郎氏のことを人々は異端の評論家という。その針生さんの足跡をたどる展覧会が今、宮城県美術館で開催されている。
[アヴァンギャルドを見つめつづけた反骨の評論家の足跡]とサブタイトルにある。最近戦後美術の紹介がよくあるように感じられる。戦後70年だからなのかもしれないが20121118日から2013225日までニューヨークの近代美術館で開催された展覧会は、TOKYO 1955-1970 A NEW AVANT GARDE とタイトルされ展示で韓国人のキュレターが構成し日本の国際交流基金の文化事業部がサポートした比較的大がかりな展示であつた。
 
 私は針生さんのお名前は存じていても個人的にお目にかかったのは1度だけ、それは2000329日―67日迄開催された韓国の光州ビエンナーレを見にいった折に、夕食を食べにいった居酒屋のようなところで遠くからお顔を拝見したにすぎなかったのだけど。
 今回、針生さんとかかわつた画家たちがセレクトされて展示されていたが日ごろ見ることのできない作品群が沢山ありとても興味深い展覧会であると思う。
 
 例えば青森の画家、阿部合成の1938年作 [見送る人々] があり驚いた。
兵庫県立美術館の所蔵であるが合成の代表作である。当時物議をかもしだした作品であると聞いている。
 合成の作品を探すため8回メキシコに行き12点の作品が集まり展覧会をした折に東奥日報に展覧会の記事があり針生さんが「非常に貴重な作品群」とお書きくださっていたがそのときもお目にかかっていない。合成に関しては本も著されていて「修羅の画家、阿部合成」は歯切れのよい文体で合成の苦悩が伝わり素晴らしい評伝だと思う。
 
 この展覧会は322日まで。このように文芸評論で戦後美術と格闘してきた
針生さんをこのように取り上げる美術館の存在もうれしいと感じているのでぜひこの展覧会を多くの人が見にいって欲しいと思う。