ニューヨークにいくといつも会いたくなる人、グリアーさん。
1924年生まれだから今年92歳になるソーホに住むデイラーだ。夫人はアーテイスト。何歳か知らないがお互いにいい感じでくらしている。電話して約束の日に訪ねると紅茶と彼が作ったケーキを出してくれる。日本のバブル期、彼に橋渡しをしていた日本人のデイラーと組んで沢山の作品を日本に売りこんだという。上手くビジネスチャンスを捉えて、、、その時代を私も知っているけれど主に美術館に購入してもらうことが多く、扱った版画作品は古典から現代までとなると多岐にわたり、リサーチに時間がかかり文献を揃えたり、バブル期は面白いけれど、私にとりハードな経験だった。しかし今も昔の知り合いと時々会うことができるのは楽しい。
2016年5月13日金曜日
2016年4月2日土曜日
Touching Time An Exhibition of the Sculpture of Kan Yasuda;
安田 侃の彫刻、New York Christie`s 前にドカーンと
彫刻家、安田侃は1945年北海道美唄市生れ。現在、大理石産地として名高い北イタリアのピエトロサンタに、1973年以降アトリエを持ち制作に励んでいると聞く。
ニューヨークのクリスティーズに行ったら、いきなり遠くからでもひと目で安田侃と分かる彫刻が玄関前にドカーンと置かれていて、とても人目を引く。ちょうどクリスティーズは
安田侃彫刻展を開催していて、中に入ると大きな部屋にゆったり作品が展示され、気持ちよい空間をつくっている。自然の中にその彫刻を思い浮かべると、草原の中に産み落とされた巨大な野鳥の卵のようだ
数々の賞を国内外で受賞され輝かしいキャリアの持ち主であるご本人にお会いしたことはないので、「彫刻家はときどきいらっしゃるの?」と聞くと、「毎日一度顔を出すわよ」と
言われ、期待したが、残念ながらお会いする機会はなかった。
クリスティーズは、中国オークションの開催中でもあったが、プライベートセールということだった。イサムノグチに次いで、安田侃も今や世界的アーテストと認め、世界のコレクターに売ろうとしている世界最大のオークシオンハウスが目をつけ始めた。
ニューヨークのクリスティーズに行ったら、いきなり遠くからでもひと目で安田侃と分かる彫刻が玄関前にドカーンと置かれていて、とても人目を引く。ちょうどクリスティーズは
安田侃彫刻展を開催していて、中に入ると大きな部屋にゆったり作品が展示され、気持ちよい空間をつくっている。自然の中にその彫刻を思い浮かべると、草原の中に産み落とされた巨大な野鳥の卵のようだ
言われ、期待したが、残念ながらお会いする機会はなかった。
クリスティーズは、中国オークションの開催中でもあったが、プライベートセールということだった。イサムノグチに次いで、安田侃も今や世界的アーテストと認め、世界のコレクターに売ろうとしている世界最大のオークシオンハウスが目をつけ始めた。
2016年3月7日月曜日
建築とアートの出会い (明治生まれの父、早大の理工科で建築を学んだそうな)
また、短い期間であったが、東大の建築科の内田先生のポケットマネーで雇われた秘書をしていたことがあり、当時の建築科の学生たちが、私の目にとてもかっこよく見えた。その後、何年か経ち新聞の記事で剣持勇氏の息子、玲さんは確かスイスのどこかで自動車事故でなくなったときいた。大学院の学生であられたがやさしく本当にかっこいい人だった。当時、すでに結婚されていたが若くして亡くなられたがきっと生きていたら一流の建築家になっていたに違いない。
画廊をはじめてから建築とアートの接点を求め始めたのも、建築に対する興味があったからだと思っている。
美術作家とクライアントの間に立ち、快適な建築空間をプロデュースする「アートコンサルタント」、それが私の仕事だ。
美術作家とクライアントの間に立ち、快適な建築空間をプロデュースする「アートコンサルタント」、それが私の仕事だ。
企業や法律事務所、病院、学校などのとかく実用本位で退屈になりがちな場所に美術品を置くことは、そこで過ごす人々にすてきな空間と時間を与え、思いがけない効果をもたらす。病院の廊下を飾る一枚の絵に言葉ではない優しさと慰めを感じたことはないだろうか。また、企業の応接室を飾る絵が、その会社の品格を示したりする。
2016年3月3日木曜日
芥川紗織(1924~1966)没後、50年をむかえて(戦後の美術界に彗星のように現れて去った天女画家)
女流画家、芥川紗織が活躍したのは、1950年代の半ば、太平洋戦争敗戦から10数年を経たころからである。人びとが戦争の荒廃や重い束縛から自らを解き放つ活動が顕著になり政府の経済白書も「もはや戦後ではない」とした時代で、自由を求め輝こうとしていた時代であった。
その頃、紗織は瑞々しい青春を謳歌しつつ、未来を夢見て上野の東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の声楽科に入学した。同窓には後に作曲家として名をなす芥川也寸志がいた。やがて2人は恋に落ち1948年に結婚した。その紗織が絵を描きはじめる。
音楽から絵画の世界に惹かれて2人の娘に恵まれた結婚生活だったが、紗織は何に衝き動かされたのだろうか。何か満たされないものがあって彼女を創作活動に走らせたのだろうか。
やがて彼女は、個展、グループ展などで精力的に作品を発表しつづける。それらは当時の前衛的作家の中にあっても異質で衝撃的なものであった。その作品は神話や民話の形を取りながら、奔放でいっそう自由自在であり、表現されているものは「女」であり、その女たちは烈しく怒り、叫び、身もだえするという烈しいものであった。まるで彼女の中に吹き荒れていた不安や葛藤を物語るようにまさしくそれは彼女の自画像であった。
離婚、そして渡米
当時の新聞や雑誌の記事に添えられた写真を見ると、紗織はふっくらと豊かな頬をもった愛らしい女性であり、常にマスコミの話題になっていたことを窺い知ることができる。
1958年、紗織は芥川也寸志との11年におよぶ結婚生活を解消した。その後、建築家、間所幸雄と新しい結婚をしてやがて2年後には新天地を求めて渡米する。
ロスアンジェルスや、ニューヨークのアート、スチューデントリーグに学び帰国してからの画風は、自らの変革を目指すが如く、それまでに見られない硬質な抽象画を描き始め劇的な変化をとげる。それらの作品は色彩も限定され、過去にあったような』先鋭的な形や色が影をひそめ、落ち着いた中に静かな安定を感じさせる作品に変わっていった。
紗織は、妻、母の役割から解放され、ひとりの女性として自らの意思で外界に眼を向ける。広大無限の宇宙に抱かれて自らを成長させる、そんな喜びを感じ始めていたに違いない。
早すぎる死
それから4年後、彼女に早すぎる死が訪れた。それは1966年1月、妊娠中毒症のために彼女は永遠に帰らぬ人となった。享年42歳であり、生き続けさえできたら、さらに輝かしい活躍が期待されたろうに。あまりにも早すぎ、惜しみて余りある死であった。その死からら50年が経ち、その間日本は大きな変化をとげている。
没後50年に当たり、歴史のはざ間に埋もれるにはあまりに惜しい彼女の画業に今一度光を与えたられたら、と願っている。当画廊は、芥川紗織展に合わせて記念画集の編纂を企画している。
紗織の作品は世田谷区美術館、東京都現代美術館、国立近代美術館、名古屋市美術館、豊橋市美術館、高松市美術館、栃木県立美術館などに収蔵されている。
2009年春には横須賀市立美術館で芥川紗織展が企画され、愛知県の三岸節子記念美術館に巡回し、彼女の画業は広く関心を集めた。また、2012年、ニューヨークで開催された「TOKYO 1955~1970 A New Avant-Garde」展には、高松市美術館所蔵作品が出展されている。
美術館以外の作品の多くは、ご遺族の委託を受けて今私の手許にあり、新たな展覧の機会を待っている。
秀友画廊では今まであまり紹介されたことのない、ニューヨーク時代の作品「油彩」を主に展示しているのでご覧になっていただきたい。芥川紗織を紹介すべく小冊子を
編集中であるが完成したら展覧会をしたいと考えているが完成は5月ころになりそうである。
連絡は shuyugallery@gmail.com または 03 3573-5335に。
2016年2月9日火曜日
嶋田 しづ さま
昨日横須賀美術館での嶋田しづ X 磯見輝夫 展のレセプシオンに参加させていただいたものです。
いろいろな機会に先生の作品に触れる機会があり今回の横須賀美術館の素晴らしい空間でどのような作品が拝見できるだろうかと楽しみでした。フジテレビギャラリーでの展覧会も拝見しています。
先生の作品はたおやかな色彩とムーブメントがどんな画家にもない世界を創り見る者をうつとりさせます。
一度お目にかかることが出来ればと、昨日レセプシオンにうかがわせていただきました。また山本理顕氏の設計なる横須賀美術館は私の最も大好きな美術館で昨日も中から海を見渡し何て素敵な設計なんだろう、、、とあらためて感心しました。光がうまく採り入れられて、時には海の中にいるような気持ちにもなるし,3次元の世界にいざなわれそうな空間でもあるし、、
初めてお目にかかりましたのに写真を撮らせていただきましたのでお送りさせていただくことに致します。何枚かは暗すぎてお送りするには良くないと考え残念ですがお送りするのを断念いたしました。
また、この展覧会が4月1日とサクラが咲く頃までの会期であることもうれしいですね。友人達にも伝えて多くの人たちが今回の展覧会を見に行き至福のときを過ごされることを待ち望みっつ。
2月7日、2016
浅野 恵巳
2016年2月5日金曜日
わだつみの声・日本戦没学生記念会(2月1日)
ついに、わだつみのこえ記念館をお尋ねする事ができた。
それは本郷にある東大の赤門前をすこし入ったところにあった。何故もっと早い時期にくることができなかったのかと後悔の思いがある。この記念館を立ち上げようと努力されておられた山下 肇先生からお聞きしながらあわただしさにまぎれていたのだろうか、、、わだつみの会記念館の初代館長であられた山下先生は2008年になくなられたのであった。
先生との出会いはケーテコルヴィッツ展を通してだった。ドイツの女流画家ケーテは近代ドイツの生んだ最も秀でた画家の1人であり私は事情の許す限りケーテの版画や素描を紹介する事に勤めた。山下先生はいつも笑顔を絶やさず優しい方で私の仕事をはげましてくださった。物知りの友人、正岡さんが山下先生のことをよく知っていて高名などイツ文学者だよ、と教えてくれた。
日本戦没学生の手記 「きけ わだつみのこえ」の刊行から57年、『戦没学生の遺書に見る15年戦争』の上梓から43年、この2冊の本は学徒出陣してついに還らなかった若者達の遺言として読み次がれ、彼らの死の意味を読者にといつずけてきましたーごあいさつ文のはじめの文章である。2006年12月1日アジア、太平洋戦争における日本の戦没学生を中心に戦争犠牲者に関する資料を広く収集して展示している。
2016年2月4日木曜日
大村 智博士の実学と美学・ラジオ深夜便から
いつの間にかTVのない生活になって久しい。その代わりラジオを聞くことが多い。ラジオ深夜便を聞く事があるが、早く眠らなくては翌日に差し支えると思いつつ、話し手がノーベル賞を受賞された大村博士だったのでつい最後まで聞いてしまった。
大村博士は絵画の収集家としても知られ、女子美大の理事長もされていた時期がおありで、5年ほど前、秘書を通じてお会いする機会があった。私はお会いしたいと思った方には、紹介者なしで、不躾と思いながらも手紙を差し上げて面会を求めることが多い。ほとんどの場合手紙は無視されお返事をいただくことは稀だが、大村博士からは秘書を通じて日時の指定があり、お目にかかることができた。
「芥川紗織の遺族から遺作をすべてお預かりするようになって20数年が経過したろうか。紗織さんは1966年に42歳の若さで没しているから活躍期間は短い。彼女の作品を大村博士の美術館にぜひ所蔵していただきたい」と言うのが、そのときのお願いであった。その後、資料もお送りしたが・・・・
ご多忙を極め、それどころではないということか、誰の紹介もなしに来た私をどう思われたのか、いまだに私の中ではお返事を待ち望んでいる。
深夜便のお話は、お会いした方が生の声で話されていたので、リアリティがあって記憶に新たである。博士は年間数十億という多額のロイヤリティをご自身の発明から得ておられることを話され、それらを①研究費として、②北里研究所、③人材育成のため~大きく分けてこの分野に使い社会に還元するということ。人材育成については、若いとき~小学・中学が大事で、大学では遅すぎること、また東京一極集中ではなく地方に多彩な才能が育つことが望ましいと話されていたのが印象に残った。
大村博士の偉大なことは、素晴らしい学問上の業績だけではなく実学を重んじておられること。学者でありながら経営感覚を備えておられると見た。
大村博士のお話を聞いて、久保貞二郎先生のことが頭をよぎった。久保先生は東大を出られたあと、1933年地主の久保家に婿養子に入られてから美術に目覚め瑛九、池田満寿夫、AY-O、北川民治、泉茂など多くの作家を援助し、ご自身もコレクターとなられた。美術評論家として有名だが、自ら作品を買うばかりでなく人にも買うことを勧め、絵を所蔵して楽しむことを教えた、正に実学の人であった。実学の人はお金のことをしっかり考えるがそれは私利私欲のためではなくお金が有効に使われて広く世の中を巡り、多くの人を豊かに潤すことを目指すことだと、私は思っている。正しい実学の人がもっと増えるともう少し世の中が良くなるのではないでしょうか。
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