2017年1月9日月曜日

2016年9月22日 被災地福島をはじめて訪れて

 原発の地、福島の各地を訪れることを何年も継続されていたこと、
そして今年も行ける人を募集されておられることを久が原教会の週報で知り空きがあればとすぐ申し込みました。
 東北大地震のあの時、わたくしは仕事場でなく銀座の7丁目に当時あったリクルートビルの1階のカフェでパソコンで何かの資料作りをしていたそのとき突然大きな揺れを感じた。地震には特別敏感なそして怖がりの私は揺れが収まらないので他の人たちと外に出たが、、、その後の東北各地での惨事をテレビで見るにつけ天災とはなんと恐ろしいものと思った。
 また、美術の仕事にあってこころある方たちはいち早く何ができるだろうかと考えて、チャリテイオークションをしたりして募金活動をされた画廊などもあった。また、今も毎年現地に行っておられる美術の関係者があることをきいている。私はだんだん人々の記憶が薄れていくことを思うと、現地に行きたい気持ちが募っていたがその機会がないまま月日が過ぎていった。今回その機会が与えられて幸いに思った。
 ツアーの中でいくつかの教会をお訪ねして交流できたことは感謝であったし、今も私自身の中でこの狭い日本でどうして原発が必要なのかと素朴な疑問を持っている。経済至上主義の日本、どこまで高度成長すれば気が済むのだろうか。あれから後も頻発する地震。日本はまさに地震列島ではないか。その上に50をこえる原発がある
なんて。5年以上たつのに、故郷がありながら帰れない人々のことを思う。なぜこの現実から謙虚に学ばないのだろうか。
 今回はいろいろと考えさせられる旅であったが、引率くださった
キスト先生とさゆ里先生がどれほどの時間をかけて準備をしてくださったのかを思うとき感謝してもしきれない気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

草の風景・冬 -信州に住むアーティスト中村眞美子-

 昨年の12月、ドライポイント版画作家の中村眞美子さんの個展をすることになった。落葉美術館を昨年閉館した平山英三氏が(私はかねがね名プロデューサーとみていたが)、中村眞美子さんの才能を育てはじめた。
  私が中村眞美子さんのドライポイントによる作品を初めて目にしたのは長野県小海町にある小海町高原美術館であった。
  2015410日にそこにあるもの-モノクロームの魅力展のレセプションに参加する為東京から乗り継いで美術館に行った。
  安藤忠雄デザインの美術館は山の谷間にひっそりと周囲の景観をくずさずあった。3人の若年のアーティストの一人として彼女は選ばれて、一番奥の部屋に展示されていた。作品は全く異質の存在感があった。
  その前に一度、その時黒姫にあった平山氏の落葉美術館で中村眞美子さんの作品を見たことを思い出した。
  夕闇迫る天井高い木の壁を背景に、その作品は3つの版からなる大きな作品(triptych)であった。秋から冬に移り変わる信州の風景、雪をかきわけて植物がすっきりとした葉を見せている作品であった。
  描きすぎない最小の表現で最大の効果を、という制作態度はすでに完成した作家の作品とも感じられた。
  展覧会は全くのモノクローム、パネルに仕込まれた和紙に刻まれたドライポイントは、そのするどさがかえって静謐な世界が広がり鮮やかな白とあいまって美しかった。
  静謐な世界が広がり、モノクロームの世界の美しさを現出していた。

 

 


没後50年 芥川(間所)紗織展 -ニューヨーク時代を中心に-


2016 1115()26()に展覧会をした。そのときのプレスリリースである。
2000年に紗織さんの没後33年の展覧会をしてから、すでに16年が経過した。
当時、銀座6丁目にあった画廊のスペースが広かったので、60号の染色作品を
展示することが可能であった。そのためパート14まで4回の展示でほとんど
全ての染色作品を紹介することができたと思う。
当時、紗織さんを知る人は少なく、見に来てくださる方も少なかったが、しかし当時の案内状に掲載した作品4点はいずれもその後美術館が購入して、永久所蔵となったことは特にうれしい。
 彼女は、画家として活躍した期間が短かったため作品数も少なく、女性画家
ということもあり、評価が定まらないが、3年前ニューヨークのMOMA(近代美術館)のキューレーターDoryun Chong氏によって企画された「19551975 Tokyo
AVANGARD」展で高松市所有の「神話・神々のタンジョウ」1956年の染色作品が出品され話題をよんだ。彼女の作品に興味を持つ人が少しずつ増えてきたよう
に思う。何よりも栃木県立美術館の学芸課長であった小勝禮子氏による、二つの展覧会「奔る女たち19301950年代」「前衛の女たち19501975が、戦後美術の女性作品に光を当てられていることを力強く感じている。
今回はスペースの関係もあり、余り紹介されることのなかったニューヨーク時代の作品を紹介することになるが、鮮烈なイメージの染色作品とは異なり、おだやかな、やさしいまなざしを感じる。
池田龍雄氏は「作曲家と別れて、芥川姓を棄てた紗織さんは、忽然と太平洋の向こうへ渡ってしまったからである。やがてアメリカはすっかり彼女の絵を変えてしまったらしい。その後ことは、1966年、突然の死が、彼女を連れ去ってしまうまで、わたしは殆ど知らない。」と語る。
来年春に小冊子発刊を兼ねて銀座教会の会場で展覧会とシンポジウムを計画している。